2009-04-29

現実の表現と社会の反応

スチーブン・ピンカー「思考する言語」を読んで、その中で指摘されている事実。「論理学や科学で用いられる概念では現実と直観がうまく折り合わないように見える」(上巻156ページ)というのは、言語研究者なら誰でもが感じていることだろう。ただ、それをどういう文脈でどのように表現するかがむつかしい。文学の出番がそこにあるといえばそうなのだろうが、なにやらみもふたもない話にもなる。
ケネス・クラーク「風景画論」で論じられるセザンヌはそれでもまさにこれを実践した巨匠だろう。クラークはこう書いている。
すべて芸術には、自然の外観の選択と支配が伴う。この選択と支配は、芸術家の気質を全部反映させるはずである。セザンヌがあの特徴的な形態を選んだとは、ただ自分の自然観をおもてに表したということである。だが彼はこれらの形態の使用にさいして、自己の意図するものに関する完全な意識を所有していたことは疑いない。(中略)自然主義が幅をきかせた時代にありながら、絵画とは自然に匹敵する秩序ある調和なりと断ずるほどの透徹を所有していたのである。(310ページ)
ピンカーが論ずるように人は、ある概念が世界に存在する実体を指すこともあれば、そうでないこともあるという直観や、世界についての信念が真実であることもあれば、単にそう信じているだけのものでもあるという直観をもつ。人はこうした直観の力を借りてアナロジーが世界の因果構造に忠実であるかどうかを見きわめ、不適切な部分を取り除いて説明として役立つ部分だけを残そうとする。
もちろん、私たちがメタファーと組合せという二つの力をもっているとしても、真実だけを生み出す能力を備えている者は誰一人いない。一人の人間の心だけでは経験にも創意工夫にも限界があるし、たとえ多数で構成された集団であっても、そこで生み出されたものを集積したり選別したりすることは、集団内の人間関係をそのために再調整しないかぎり、ありえない。日常生活上の考えの不一致は、「体面(フェイス)」を重んじる私たちの意識を脅かす可能性があり、だからこそ人は他人と礼儀正しく会話しようとするときには、天気の話や役所の無能ぶり、機内食や寮の食事のまずさなど、合理的な人間であれば誰もが同意するような話題に終始する。もっとも科学や経済、政治、ジャーナリズムなど、知識を客観的に評価することを本分とする領域においては、こうした堅苦しい礼儀正しさに代わる方法を探らなければならない。(下巻219ページ)
堂目卓生「アダム・スミス」で紹介される社会は、こうした人のもつ傾向について社会がどういう圧力をもたらしているかを「道徳感情論」に即して述べている。
世間は、意図したにもかかわらず意図したとおりの結果を生まなかった行為に対して、基本原則が示すよりも弱い賞賛または非難しか与えない傾向をもち、意図しないにもかかわらず偶発的に有益な、または有害な結果をもたらした行為に対して、基本原則が示すよりも強い賞賛または非難を与える傾向をもつ。(47ページ)
アダム・スミスの考えていた社会はおそらくここに理解すべき背景の核心があると思われるが、堂目卓生は次のように説明している。
世間の評価は偶然によって影響を受けるため、胸中の公平な観察者の評価とは異なるときがある。私たちの中の「賢明さ」は、胸中の公平な観察者の賞賛を求め、非難を避けようとする。しかしながら、私たちの中の「弱さ」は、胸中の観察者の評価よりも世間の評価を重視し、また、自己欺瞞によって、胸中の公平な観察者の非難を無視しようとする。そこで、私たちの中の「賢明さ」は、胸中の公平な観察者の非難を避け賞賛を求めるように行動することを一般的諸規則として設定する。こうして、私たちは、一般的諸規則に従う義務の感覚を養う。私たちは、一般的諸規則のうち、正義に関しては、それを法という厳密な形にする。法と義務の感覚によって、社会秩序が形成され、維持される。しかしながら、私たちの中の「弱さ」は、私たちの義務の感覚を弱め、私たちに法を犯させることもある。したがって、現実の社会において、秩序は完全なものにはならない。(102ページ)